この記事は当時、書こうかどうか散々迷って結局放置してたけど。
ふと思い立ちリライトして、若干今更感あるけど、折角なので掲載することにした。
チャリ関係なくね??ってタイトルだけど、末尾にチャリに関するトピックというか考えを追記したんので良かったら読んでみて。じゃー行ってみよう。
コロナ禍の時の空気感
「え、まだ打ってないの?」
コロナ禍のある日、友人にそう言われた。
僕はワクチンを一度も打たなかった。
それだけで、心のどこかで「言い訳しなきゃ」と思ってしまう。
打たなかったことが悪いわけじゃない。
でも、あの頃の空気はそう言ってなかった。
周囲の目線、SNSのコメント、メディアの論調…
“みんなと同じ意見でいること”が安全の証明になっていて、違う意見は否定されがちだった。
コロナは確かに怖かった。でもそれ以上に、「打たない人=おかしい」という空気の方が、僕にはずっと怖かった。
今振り返っても、あれは単なるウイルスとの闘いじゃなかったと思う。
「自分で考えること」が、社会の中で最もリスキーになってしまった3年間だったように思う。
なぜ「ワクチン打たない」を選んだのか
ワクチンを打たなかった理由は、別に特別な思想があったわけじゃない。
ただ、シンプルに「納得できなかった」だけだ。
一番大きかったのは、安全性に関する“明確なエビデンス”が、当時は少なすぎると感じたこと。
「半年後にどうなるのか」「長期的な副反応は本当に大丈夫なのか」。
専門家が断言を避ける中で、テレビだけが「打たなきゃヤバい」という雰囲気をどんどん作り上げていた。
さらに言えば、僕はインフルにもほとんどかからないし、日頃から体調管理には気をつけているタイプ。
風邪でさえ寝込むことがない自分にとって、「新型コロナ」だけが特別視されることにも違和感があった。
そのうえで、毎日のように「今日の感染者数」がグラフとともに報道され、まるで“数字で恐怖を植え付ける”ような光景。
メディアが「煽ってる」と感じる瞬間は、一度や二度じゃなかった。
僕の中では、「コロナは風邪の延長線上の一種」と捉える感覚が強かった。
もちろんリスクのある人もいたと思う。でも、自分自身のリスクと向き合った結果、自然免疫で乗り越えられると判断した。ただそれだけのことだった。
「自由な選択」はなぜ許されなかったのか
ワクチンを打たないという選択は、誰かを傷つけることでも、法律に背くことでもなかったはずだ。
それなのに、あの頃はまるで「打たない=わがまま」「危険人物」みたいな扱いを受ける空気があった。
周りの人に説明を求められたり、根掘り葉掘り聞かれたり、時には皮肉めいた目で見られることもあった。
なぜこんなにも、“説明責任”を背負わされるんだろうと、何度も感じた。
逆に、ワクチンを打った人たちは「正しいことをした」とされ、疑問を持つことすら「非科学的」と片付けられる空気が広がっていった。
あの頃は“自分で考えること”が、いちばんリスキーな行動だったように感じた。
「大多数の意見に従う」ことこそが、安心と安全の証明になっていた気がする。
メディアも、SNSも、職場も、家族も。どこかで“打った? まだ?”という確認が、無言の圧力になっていた。
思いやりや科学的根拠という言葉の影で「みんなと違う」というだけで居場所が狭くなっていく。
それでも「選んだ」ことの意味
そんな中で、僕がワクチンを打たなかったことは、ただの“否定”や“反発”じゃなかった。自分の身体に起こることだから、しっかり考えて選びたかっただけだ。
で、結果的にワクチンを打たなかった僕は、コロナには罹らなかった。正確に言えば、コロナの特徴とされる症状が出なかった。
一応人前ではマスクはした。それ以外は至っていつも通りに過ごした。アクリル板の無い、喫煙可能でちょっと密な居酒屋とかにも、様子を見ながら足を運んでいた。
勘違いの無いように補足しますね。僕は、別にそれを自慢するわけでも無いし、ワクチンを打った人に対して何か意見をしたいわけでもない。症状は出なかった。ただ、僅かに微熱が出た日もあったから、絶対に感染しなかったのかといえば何とも言えない。
少数派として肩身が狭い思いもしたし、誤解や偏見もあった。それでも、自分の判断に納得できることが何より大切だった。
もちろん、接種を選んだ人たちの判断も尊重しているし、それぞれが信じた道を歩いたことに違いはない。
この経験から学んだのは、多様な意見や選択が尊重される社会の必要性だ。
どんな時代でも、みんなが同じ方向を向かなきゃいけないなんて、息苦しい。
自分とは違う考えを持つ人もいていいし、その自由が保証されてこそ、真の安心や安全があるはずだ。
だから、たとえ少数派でも、取捨選択の上で静かに自分の道を歩くことは、決して間違いじゃないし、それは尊い行為だと僕は思ってる。ちょっと脱線したかな。
これからも大切にしたいこと
さて。あれだけ連日連夜、様々なメディアやチャネルでコロナに関する推移が逐一で更新されていた日々が、まるで嘘のように、今(2025年現在)は【過去の事】の様な扱いになっている。
コロナ禍とは結局何だったのか。数値の推移に戦々恐々、あるいは一喜一憂し、時の政府はマスクを配り、オンラインミーティングが根付き、他にも様々な影響が及んだのは事実だね。
それだけ、コロナ禍は多くのことを考えさせられるキッカケにもなった。
ウイルスの恐ろしさだけじゃなく、「空気」に流されず、自分の頭で考えることの大切さも。
今後も、世の中の情報や声に踊らされず、自分の判断を信じて生きていきたい。それは例えば選挙投票の際にどの政党に投票するか、とかもだし、SNSでよくある、やたらとキラキラした「儲かりますよ」「生活レベル高いっしょ?」的な投稿に踊らされないとか、ね。身近なところに情報があるれ過ぎてる現代だから。取捨選択、個の判断を正しくやっていきたい。
で、違う意見や選択をする人も尊重し合える社会になればいい。(もちろん、明らかに悪意がある意見などはその限りではないし、それを判断するのも個の判断、だけどね)
そのためには、対話と理解が欠かせない。
怖れや不安を煽るのではなく、誰もが安心して自分の考えを話せる場所をつくりたい。小さなところからでも。
この文章を読んでくれたあなたにも、そんな思いが届けば嬉しい。
ところで。コロナ禍で増えた“チャリ・バイク熱”、その後どうなった?
コロナ禍で、密を避けるためにスポーツバイクを買ったり、バイク免許を取る人がグッと増えたのは皆様ご存知かと。
街なかで新しいチャリやバイクを見かけることが多くなって、「おっ、いいな!」ってテンション上がった人も多いのでは?
でも、その熱ってぶっちゃけ一過性だったのか?正直、最初の勢いは落ち着いてきた感じもあるよね。

それでも、せっかく手に入れた愛車はしっかり大事にしてほしい。
チャリもバイクも、単なる移動手段じゃなくて、風を切って走る“自由時間”の象徴だし、心も体もリフレッシュさせてくれる最高の相棒。
だから、流行りだけで終わらせずに、日々の生活に“チャリ&バイクのある風景”を根付かせていけたらいいかなって。
ちなみに、そうして手に入れたチャリ、メンテナンスが面倒に感じる人もいるかもだけど、僕のブログでは「簡単メンテ」の記事も書いてるから、よかったらご参考までに。

今回は普段とは方向性が違う記事だったかもだけど、最後まで読んでくれて感謝です。
miki